「また同じことが起きても、備えがあれば変わる」──能登の経験から伝えたいこと
「燃料があれば、自分の身を守るだけでなく誰かの手助けができる」——そう語るのは、石川県内で5軒のガソリンスタンドを経営する協和石油販売株式会社の社長・中市隆幸さん。2024年元日に発生した能登半島地震で被災しながらも、地域を支える燃料供給の現場に立ち続けました。あの日の記憶と、そこから見えた“備え”の意味についてうかがいました。
| 協和石油販売株式会社 代表取締役社長 中市隆幸さん 宮崎県で生まれ育ち、上京してゲームソフト制作会社に就職。「地方で働いてみたい」という思いから石川県に移住し、経理の仕事を経て、協和石油販売株式会社の代表取締役社長に就任。石油事業をはじめ、建設業・産業廃棄物処理業・造園業と事業を展開。2023年2月には防災士の資格を取得した。仕事のモットーは「地域のお客さまに貢献し、愛される企業を目指す」こと。 |
地震直後に見た光景と、復旧への一歩

あの日、どこで揺れを感じ、最初に何を考えたのか。当時の様子を中市さんは振り返ります。
「地震が起きたのは、金沢市から妻の実家がある珠洲市に車で向かっているときでした。すぐに妻の両親に電話をかけて安否を確認しましたね」
経験したことのない揺れで、前を走る車が地面のうねりによって宙に浮いた光景が、今も脳裏に焼きついているといいます。
「大きな揺れは2回ありました。1回目で周りの車も減速し、2回目でほぼみんな停車したような感じです。気づくと前方も後方もアスファルトが崩落して、車30台ほどが道路に取り残されました」
身動きが取れず、その日は妻とともに車中泊をした中市さん。妻の実家で囲もうとしていたお節料理をつまみながら、夜を明かしたそうです。

これから仕事はどうなるのか。なにより社員は無事なのか。経営者としての責任と不安が押し寄せてきました。
「社員も家族の一員なので、みんなで顔を合わせられたときは本当に安心しました。『とにかく生きて、会えてよかった』と、それだけを伝えましたね」
社員の無事を確認したあと、中市さんたちは一刻も早い復旧に向けて動き出しました。最優先で行ったのは、道路のひび割れを砕石や砂利、近場の土で埋めて幹線道路を通すこと。
「社員たちが現場で対応してくれたので、私は非常食や水、衣類などを買い集めて金沢市と珠洲市を往復していました。社員たちの生活に少しでも不安がないようにしたくて、必死だったと思います」
被災地で尽きかけた燃料をつなぐ、現場の判断と想い

「冬場に車のエンジンを切ると、車内は15分くらいで外気と変わらないくらいの温度に下がってしまいます。だから、車中泊をするにはエンジンをつけっぱなしにしなくてはなりません。ガソリンは避難生活に欠かせないものです」
1月4日に営業を再開したガソリンスタンドには、給油を求める車で3kmにわたる渋滞ができました。しかし、地震の影響で道路状況が悪く、ガソリンの補充が追いつかない状況だったといいます。
「一台でも多く給油できるように、ガソリンは一人3,000円か20Lまでと制限していました。それでも供給が不安定だったので、翌日のことを考えて販売を打ち切りにすることもありました」
中市さんは並んでいるお客さまに「販売できないことを伝えるのは心苦しかった」と言います。普段来られないお客さまからは不満の声をいただくこともあったそうですが、普段から交流のあるお客さまは、理解を示してくれる人が多かったそうです。
「今日はもう販売できないと伝えると、『わかった、明日何時に並べばいい?』『他にいい方法はないか』と言ってくれて救われました。」

ガソリンや灯油の供給には、自衛隊も大きく力を貸してくれました。ガソリンや灯油を大量に仕入れ、避難所に配送し被災者に配ってくれたといいます。
「大量の灯油ポリ缶、ガソリン携行缶への給油に、SSスタッフの対応が追いつかないくらい忙しいときもありました。ですが、自衛隊の方が命を繋いでくれていると思うと、そこに協力できてよかったです」
非常時こそ「つながり」が力に。地域連携で守った現場

アスファルトのひび割れによって道路が寸断されたものの、自衛隊が道路を補修してくれたことで「タンクローリーによるガソリンの配送は途絶えなかった」と中市さん。しかし時間がかかり、いつ来るのか全く読めない状況だったそう。その間にも給油を待つ長蛇の列は伸び続けます。
「一般車両だけでなく緊急車両も並んでいたので、弊社の2店舗を一般車両用と緊急車両用に分けて対応したりしていましたね」
人命救助に駆けつけた何百台という警察車両の給油も、なかなか追いつかなかったといいます。
「これに対しては、同業他社との間で調整しました。例えば、ガソリン車は他社が対応し、軽油を使う警察のバスは敷地が比較的広い弊社が担うという感じです」
他にも、LINEで連携を取りながら建設車両の給油に対応したそうです。
「非常時こそ、コミュニケーションを取って協力し合うことが大事だと思っています」

一方、全石連は各所と連携し、給油活動をはじめ地域の復興のために活動しました。
「全石連は資源エネルギー庁と連携しているので、電力を優先的に回復させるサポートや、タンクローリーの配送状況などの情報共有をしていただきました。さらに現地のSSスタッフの状況を確認したり、被災地の困っていることを吸い上げて知事や国会議員の先生方に報告してくれたりと、情報の橋渡しの役目を担ってくれたんです」
こうした各所の連携が、混乱状態だった被災地を救った——。中市さんの話からは、日頃からコミュニケーションを大切し、信頼関係で結ばれていることの重要性がうかがえます。
震災が教えてくれた、仲間の大切さと日常の尊さ

「同じ町内でも、家に押しつぶされて亡くなった方もいれば、家を失って今後どう生きていけばよいか悩んでいる方もいます。そんな中、社員が一人残らず無事で、私自身も生かされている。だから、できることはできるだけやろうと前向きな気持ちになりました」
社員の中には命こそ助かったものの、家を失いつらい目にあった方もいるそう。それでも、出社して明るく仕事をしている姿に、中市さんは胸を打たれたといいます。
「震災を通して改めて社員のまっすぐな姿を見て、大切に思う気持ちがより強まりました。気持ちだけでなく、経営者の立場としてできるだけ待遇面をよくしたいと考えるようになりましたね」
「自分一人でできることなんて、ほとんどないんです」と中市さん。一人一人が力を合わせることで営業を再開できたり、復旧に向けて動いたりできる。自分だけではできないことも、みんなで分担しているから成し遂げられる。改めてそのことに気づかされたといいます。

また、被災地の状況を目の当たりにすると、意外な問題が見えてきました。
「被災者の方に困ったことはないかと聞いたとき、『ここから一番近いコインランドリーはどこですか』と聞かれたんです。もっと深刻な悩みを想像していたので思わず拍子抜けしてしまったのですが、被災して一番困るのは”普通の生活”ができないことかもしれません」
当時、断水は3ヶ月以上続き、その間の入浴やトイレといった問題はかなり深刻だったそう。もちろん洗濯もできません。
「ゴミ収集車も来ないので、ゴミ袋も山ほどたまっていきました。そうして衛生状態が悪くなると、体調を崩す人もでてきて。生活に最低限必要なことが何もできないと仕事も集中できないので、当たり前が崩されていることの重大さに改めて気づけました」
備えは人助けにもなる。今からできることを始めよう

「ガソリンは、メーターの半分を切ったら満タンにすることを心がけたほうがいいと思います。災害時、車を一時的な避難所として利用する際にも、エアコンやラジオの使用、スマホの充電には十分な燃料が必要です。自分や家族の命を守るためにもガソリンは必要不可欠な存在だと言えます」
「特に、大型連休前に満タンにしておくように」と、中市さん。実際に、正月前の年末に満タンにしておいたことで、元日の地震発生日を車中泊で乗り越えられたと振り返ります。
「あとは、停電すると電気ストーブは使えないので、小さくてもいいから電池式のストーブを一台は持っておくのがおすすめです。私も以前から持っています。自分の身を守るだけでなく、暖が取れることでちょっと人の手助けができるかもしれないという意味でも、備えておくことが大事です」
燃料は、暮らしを支える砦になります。次はいつどこで起こるかわからない災害に向け、できることから始めてみませんか。
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